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教育というのは、いうまでもなく大切なもの。また、どんな立場の人にとっても関心のあることでしょう。教育ですべてのことができるということではないが、あらゆる営みは教育に転換することができる。
しかし、教育の方法は「非完璧」である。完璧な教育はあり得ない。多数の学生を相手にすると、教える側、教わる側には良くも悪くもすれ違いがある。そのギャップを埋めるのに必要なことは「愛情をもって教育する」ということである。
米では1960年代半ばから、あらゆる階層、多人種、女子学生が増え、急激に大学の大衆化が始まった。例えて言えば「高級料亭」から、高いものから安いものまで色んなメニューを揃える「大衆食堂」への転換を図らざるを得なかった。
日本の大学でも全入時代を間近に控え、大衆化への対応が急務だ。「入ってきた時の水準をどれだけ上げて送り出すか」が重要だ。教育へのスタンスとして「教科を教えるだけじゃなく、学生を教えなければならない」。教科を教えるのは、知識があってある程度準備すればできるが、学生を教えるのはかなりの技が必要だ。
ノーベル文学賞受賞者でアイリッシュ文学のウィリアム・バトラー・イェーツ氏は「教育というのはバケツに水を一杯にするのじゃなく、火をつけることだ」と述べている。知識を詰め込むだけではなく、本人を燃えさせるということ。わずかな自信を持ったことでも、それをきっかけに伸ばしてあげることが大切だ。
ラーニング・ピラミッドという、米でのおもしろい研究結果がある。学習の仕方によって、人は10年後どれだけ学習したことを記憶に止めているかを表したもの。それによると、講義で習ったことはわずか5%、視聴覚をとおしては20%、討論やフィールド学習を通しては50〜70%、一番記憶に残る学習の仕方は「習ったことを誰かに教えること」。90%が記憶に残るという。
大学の大衆化の進行により、学生の学習レベルにばらつきが出てきたため、私がハーバードで教えていた時には数学の講義レベルが100段階あった。それに対応するため、教員だけでなく学生に教えさせるシステムを取り入れた。学生に教えさせ、学ばせる。足らないところを逆に利用する。様々な不完全要素を利用して完全なものに近づける。これが「非完璧の有効利用」である。
日本の大学も財政的な問題も含めて「変革の時代」を迎えている。「変革」に必要なものは何か?それは「評価」と「開示」だ。
米の大学では当たり前のことだが、学生に自分の学科・コースの事を評価してもらう。おそらく問題になるのは「学生の評価は完璧か」ということ。完璧でないということは初めからわかっている。大切なことは教員も、学生もそれぞれに教育内容に関心をもってもらうことである。さらに、評価の仕方を学習してもらうという別の教育成果も生まれる。
評価され、差別化される世の中の流れは変えることができない。第三者評価機関に評価される時代にも対応しておかねばならない。
日本の社会、特に大学というところは今まで情報を「開示」することに慣れていない。これもかなり抵抗があるだろうし、色んなことを心配する。しかし、それも世の中すべてが非完璧だと理解できれば楽しめるようになる。日本人の1番悪いところは「完璧主義」だ。完璧なものを求めようとすれば、高くつく。不完全なことを活用しないといけない。
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